【世界陸上からの学び】
2025.09.30先日東京で開催された世界陸上大会。久しぶりの東京開催ということで、スポーツ好きの私としては大変楽しみにしながら、可能な限り普段あまりみたいTVにかじりつく毎日でした。
スポーツ観戦する際、当然の如く、素晴らしい記録やギリギリの勝負を楽しみに見ていますが、同時にそこに隠された人間ドラマに注目してしまいます。今回もいくつかの感動的なシーンがありましたが、その中でも特に美しい瞬間を見られたのが、男子棒高跳び決勝。
周知のとおり、圧倒的な跳躍で世界新記録を樹立し、金メダルを獲得したのは、スウェーデンのアルマン・デュプランティス選手。その瞬間の彼の表情は、歓喜と達成感に満ちていました。しかし私にとってそれと同じくらい印象に残ったのは、彼の隣にいた2人のメダリストたちの姿でした。
銀メダルを獲得したギリシャ代表のエマノイル・カラリス選手。そして銅メダルのオーストラリア代表、カーティス・マーシャル選手。
デュプランティス選手が記録に挑んでいるその傍らで、カラリス選手はリラックスした様子で小型の携帯ファンを彼に向けて風を送っていたのです。自らも表彰台に立つ競技者でありながら、その姿はまるで兄弟のような、パートナーのような、あたたかいまなざしを帯びていました。マーシャル選手もまた、その隣でそっと寄り添うように微笑みで、試技を見守っていました。彼らの表情は、TV画面を通してもおよそライバルのそれではなく見えましたね。
世界記録が更新された瞬間、彼らは自分のことのように両手を広げて喜び、飛び上がるように祝福の拍手を送っていましたが、そこにはメダルの色や順位を超えた友情、尊敬、そして純粋なスポーツマンシップを感じることが出来ました。
この場面を見て、私はハッとさせられました。
スポーツとは、本来「競争」であるはずであり、記録を争い、勝敗を分かつ場であるはずです。それなのに、なぜ彼らはあれほどまでに、お互いを思いやれるのか。
おそらくそれは、自分の限界に挑んだ者だけが知る「孤独」と「尊敬」があるからだと思います。どれほど自分を追い込んできたか。何度も心が折れそうになったか。その全てを理解し合えるからこそ、競技を終えたあとに、純粋な気持ちで喜び合える。
これは私たちの仕事や人生でも同じでかもしれませんね。
長くなったので、続きは次回。
【生成AIと暮らす日常、そして私たちが考えるべきこと】
2025.09.222022年末にChatGPTが登場してからというもの、「生成AI」という言葉は瞬く間に世の中に広まりました。それから約3年、2025年の今、生成AIはもはや目新しい技術ではなく、私たちの仕事や暮らしの中にごく自然に存在する「隣人」や「パートナー」として根付いてきたように感じます。
ChatGPTやClaude、Copilotといったツールの名前を聞いたことがない人の方が珍しくなり、職場でも学校でも家庭でも、ごく当たり前のように生成AIを活用する場面が増えました。実際、私自身のまわりでも、企画書のたたき台をAIに出してもらったり、議事録を瞬時に要約してもらったり、マーケティング施策の草案を練ったり、Excelの関数を書かせたりと、さまざまな形でAIが関与する仕事の風景が広がっています。
これは日常生活でも同様です。旅行の行き先を提案してくれたり、冷蔵庫の中身からレシピを考えてくれたり、本の要約をしてくれたり。生成AIがいることで、これまで面倒だと感じていた作業がぐっと軽くなった実感があります。
ただ私が最も驚いているのは、「生成AIがもたらす変化」は単なる“効率化”にとどまっていないという点です。
たとえば以前なら、「このプレゼンどう構成しよう…」と一人で悩んでいたことも、今ではAIと対話しながら案を出し、Notion AIで文章化し、Midjourneyでビジュアル案を試作する――といったように、アイデアを“共創”するプロセスが当たり前になってきました。人間の創造性がAIによって拡張されている、そんな実感があります。
一人で作るのではなく、生成AIというチームメイトと一緒に何かを生み出す感覚。これは単なる「時短」や「自動化」といったものではなく、人間の可能性を広げてくれるポジティブな力です。
一方で、生成AIが広がるからこそ見えてくる課題もあります。
「それっぽいけど間違っている情報」をもっともらしく語ってしまうリスク。著作権や学習データの透明性への懸念。教育現場での過度な依存。そして、「AIが作った文章だから正しいはず」と無批判に受け入れてしまうリテラシーの問題。
特に教育の現場では、生成AIの導入によって「考える力が育たなくなるのでは」という声がある一方で、「一人ひとりに寄り添った学びのサポートができる」という利点もある。どこまでを任せて、どこからは自分で考えるか、このバランスの最適解は、まだ社会全体として模索中だと思います。
結局のところ現時点では、生成AIをどう活かすかは人間次第。AIは万能でも完全でもありません。だからこそ、私たち自身が 「どこまで任せ、どこは自分で判断するか」 という距離感をしっかり持つことがますます重要になっていきます。
即ち生成AIはチャンスでもあり、リスクでもあるということ。その真価は、「どの技術を使うか」ではなく、「どう使うか」にかかっています。
2025年の今、生成AIはもはや一部の人だけが扱う特別な道具ではなく、誰もが使える開かれた存在となりました。
だからこそ、私たち一人ひとりが問われているのは、「生成AIが何をしてくれるか?」 ではなく、「私たちは生成AIとどう未来をつくるか?」 という視点なのかもしれません。
【Cooのふるさとへ ~後編~】
2025.09.01私たち家族が訪れたのは、レドンドビーチの丘の上。
かつて住んでいた家のすぐ横に広がる海沿いの芝生、Cooが毎日駆け回っていた場所でした。
15年前と変わらず、海沿いの午前中は気温が低いためどんよりと雲が流れ、海風のやわらかさ、そして芝生の感触、そして目の前に広がる景色は、当時のままでした。ピアの先端が海にのびるその光景を見た瞬間、まるで昨日のように、Cooと過ごした時間が鮮明に心によみがえりました
Cooは、ウェールズ原産のウェルシュ・コーギー・ペンブローク。温暖で湿気の少ないカリフォルニアのような気候が、彼女にとって最も心地よい場所だったと思います。日本の夏は少し苦手そうだったけれど、雪が降る鳥取の冬は本当に嬉しそうで、まるで子犬のように走り回っていた姿が、今も忘れられません。
私たちは、事前に用意していた小さな遺灰入れを開け、一人ずつ彼女の灰を手に取り、そっと芝生の上に還していきました。声は出さずとも、それぞれの胸の中には、「ありがとう」と「おかえり」が、確かに存在していました。
この瞬間、人生でも感じたことがないようなスピリチュアルな気持ちに包まれ、自然と涙がこぼれました。しかしそれは悲しさだけではなく、何か温もりにも包まれ、心から穏やかな気持ちとなりました。確かに彼女は15年前、この芝生の上で楽しそうに走り回っていた。毎朝ここに来るだけで、フリスビーはいつ投げるのかと私を見つめていたCoo。日本に移住した後も、本当はこの芝生の匂いを懐かしんで、帰ってきたかったんだろう。
そして最愛のCooが、ついに生まれ育ったアメリカの地へ、そして大好きだったあの芝生へと還ってきました。
Welcome back to your HOME TOWN, Coo.
海も風も、芝生も、そう言ってくれているように感じました。
5人だった家族が、4人家族となった私たちの心にも、その声は確かに聞こえていました。
彼女がいたからこそ、私たちは一緒に笑い、支え合い、家族としての絆を深めてこれたのだと思います。
それはCooは私たちにとって、ただのDogではなく、「Family Member」 そのものであったからです。
昨年11月、我が家はおそらくこれまでの人生で最も悲しい出来事を経験しました。そして5人家族が4人家族となり、各々が耐え難い喪失感の中、日々の生活してきました。しかし、今回このTripの最大の目的である、我が家のセレモニーを無事終わらせ、やっと心の整理と気持ちに一区切りが出来たように感じます。
We are forever grateful for fifteen wonderful years together. We look forward to the day we meet again on that peaceful grassy hill. The days we spent with you will forever remain a treasure in our hearts.
昼を迎え午後になり、気が付けばRedondo Beachの空はあの頃のように快晴となっていました。

Rest in Peace, dear Coo.
Redondo Beach, California your home, always.
with all our LOVE.







