【やはりスポーツはアートである】
2025.10.01スポーツとは、本来「競争」であるはずであり、記録を争い、勝敗を分かつ場であるはずです。それなのに、なぜ彼らはあれほどまでに、お互いを思いやれるのか。
おそらくそれは、自分の限界に挑んだ者だけが知る「孤独」と「尊敬」があるからだと思います。どれほど自分を追い込んできたか。何度も心が折れそうになったか。その全てを理解し合えるからこそ、競技を終えたあとに、純粋な気持ちで喜び合える。
これは私たちの仕事や人生でも同じでかもしれませんね。
ビジネスもまた、競争の連続です。他社に勝たねばならない。自社の成長を追わねばならない。けれど、それでも本気で取り組む者どうしには、自然と生まれる尊敬と共感があります。競争相手でありながら、同じ道を歩む“仲間”のような感覚がある。そんな関係性は、これからの時代の理想的な在り方だと感じます。
自分以外の「成功」を祝福できる心
私が特に感動したのは、自分以外の選手の世界記録を、心から嬉しそうに祝福していたという事実です。
誰しも、悔しさがゼロではないはずです。あと数センチで届かなかった金メダル。けれどその場にいた彼らは、その思いよりも、デュプランティス選手の偉業を讃える心を選んだ。これは並大抵のことではありません。
カラリス選手が小型ファンで風を送り続けていたあの姿には、「最高のパフォーマンスを出せるように応援しているよ」という無言のメッセージがあったと私は感じました。仲間であり、ライバルであり、人生の一コマを共有する者同士の絆が、そこに確かに存在していました。
我々組織で目指すべきは、「勝つことだけではなく、誰かの成功を心から喜べるチーム」でもあるはずです。
それは簡単なことではありません。人は誰しも、比較してしまい、嫉妬してしまうものです。しかしそれを乗り越えた先にこそ、本当に強く、幸福なチームが生まれると信じています。
スポーツの世界では、限界に挑む姿を「アート」にたとえることがあります。それは「肉体の美しさ」だけでなく、今回のような「心の美しさ」も含めて、そう表現されるのでしょうね。
今回の世界陸上で見たあの棒高跳びの3人の姿は、競技という枠を超え、人間の本質的な美しさを感じさせてくれました。そして記録や順位を超えて心が揺れたあの瞬間こそが、我々が感じた本当の感動なのだと、改めて感じた素晴らしい大会でした。
【世界陸上からの学び】
2025.09.30先日東京で開催された世界陸上大会。久しぶりの東京開催ということで、スポーツ好きの私としては大変楽しみにしながら、可能な限り普段あまりみたいTVにかじりつく毎日でした。
スポーツ観戦する際、当然の如く、素晴らしい記録やギリギリの勝負を楽しみに見ていますが、同時にそこに隠された人間ドラマに注目してしまいます。今回もいくつかの感動的なシーンがありましたが、その中でも特に美しい瞬間を見られたのが、男子棒高跳び決勝。
周知のとおり、圧倒的な跳躍で世界新記録を樹立し、金メダルを獲得したのは、スウェーデンのアルマン・デュプランティス選手。その瞬間の彼の表情は、歓喜と達成感に満ちていました。しかし私にとってそれと同じくらい印象に残ったのは、彼の隣にいた2人のメダリストたちの姿でした。
銀メダルを獲得したギリシャ代表のエマノイル・カラリス選手。そして銅メダルのオーストラリア代表、カーティス・マーシャル選手。
デュプランティス選手が記録に挑んでいるその傍らで、カラリス選手はリラックスした様子で小型の携帯ファンを彼に向けて風を送っていたのです。自らも表彰台に立つ競技者でありながら、その姿はまるで兄弟のような、パートナーのような、あたたかいまなざしを帯びていました。マーシャル選手もまた、その隣でそっと寄り添うように微笑みで、試技を見守っていました。彼らの表情は、TV画面を通してもおよそライバルのそれではなく見えましたね。
世界記録が更新された瞬間、彼らは自分のことのように両手を広げて喜び、飛び上がるように祝福の拍手を送っていましたが、そこにはメダルの色や順位を超えた友情、尊敬、そして純粋なスポーツマンシップを感じることが出来ました。
この場面を見て、私はハッとさせられました。
スポーツとは、本来「競争」であるはずであり、記録を争い、勝敗を分かつ場であるはずです。それなのに、なぜ彼らはあれほどまでに、お互いを思いやれるのか。
おそらくそれは、自分の限界に挑んだ者だけが知る「孤独」と「尊敬」があるからだと思います。どれほど自分を追い込んできたか。何度も心が折れそうになったか。その全てを理解し合えるからこそ、競技を終えたあとに、純粋な気持ちで喜び合える。
これは私たちの仕事や人生でも同じでかもしれませんね。
長くなったので、続きは次回。
【生成AIと暮らす日常、そして私たちが考えるべきこと】
2025.09.222022年末にChatGPTが登場してからというもの、「生成AI」という言葉は瞬く間に世の中に広まりました。それから約3年、2025年の今、生成AIはもはや目新しい技術ではなく、私たちの仕事や暮らしの中にごく自然に存在する「隣人」や「パートナー」として根付いてきたように感じます。
ChatGPTやClaude、Copilotといったツールの名前を聞いたことがない人の方が珍しくなり、職場でも学校でも家庭でも、ごく当たり前のように生成AIを活用する場面が増えました。実際、私自身のまわりでも、企画書のたたき台をAIに出してもらったり、議事録を瞬時に要約してもらったり、マーケティング施策の草案を練ったり、Excelの関数を書かせたりと、さまざまな形でAIが関与する仕事の風景が広がっています。
これは日常生活でも同様です。旅行の行き先を提案してくれたり、冷蔵庫の中身からレシピを考えてくれたり、本の要約をしてくれたり。生成AIがいることで、これまで面倒だと感じていた作業がぐっと軽くなった実感があります。
ただ私が最も驚いているのは、「生成AIがもたらす変化」は単なる“効率化”にとどまっていないという点です。
たとえば以前なら、「このプレゼンどう構成しよう…」と一人で悩んでいたことも、今ではAIと対話しながら案を出し、Notion AIで文章化し、Midjourneyでビジュアル案を試作する――といったように、アイデアを“共創”するプロセスが当たり前になってきました。人間の創造性がAIによって拡張されている、そんな実感があります。
一人で作るのではなく、生成AIというチームメイトと一緒に何かを生み出す感覚。これは単なる「時短」や「自動化」といったものではなく、人間の可能性を広げてくれるポジティブな力です。
一方で、生成AIが広がるからこそ見えてくる課題もあります。
「それっぽいけど間違っている情報」をもっともらしく語ってしまうリスク。著作権や学習データの透明性への懸念。教育現場での過度な依存。そして、「AIが作った文章だから正しいはず」と無批判に受け入れてしまうリテラシーの問題。
特に教育の現場では、生成AIの導入によって「考える力が育たなくなるのでは」という声がある一方で、「一人ひとりに寄り添った学びのサポートができる」という利点もある。どこまでを任せて、どこからは自分で考えるか、このバランスの最適解は、まだ社会全体として模索中だと思います。
結局のところ現時点では、生成AIをどう活かすかは人間次第。AIは万能でも完全でもありません。だからこそ、私たち自身が 「どこまで任せ、どこは自分で判断するか」 という距離感をしっかり持つことがますます重要になっていきます。
即ち生成AIはチャンスでもあり、リスクでもあるということ。その真価は、「どの技術を使うか」ではなく、「どう使うか」にかかっています。
2025年の今、生成AIはもはや一部の人だけが扱う特別な道具ではなく、誰もが使える開かれた存在となりました。
だからこそ、私たち一人ひとりが問われているのは、「生成AIが何をしてくれるか?」 ではなく、「私たちは生成AIとどう未来をつくるか?」 という視点なのかもしれません。



